もう一つの有人宇宙飛行(X−15物語)
X−1で超音速飛行をなしとげたNACAは新たなターゲットとして宇宙空間にまで飛行できるロケット飛行機の開発を計画する。この計画はマッハ5以上で飛行する極超音速実験機として具体化し、1955年にX−15と命名される。開発には4社が名乗りを上げるが最終的にノース・アメリカンに決まる。一般にマッハ5以上の速度を極超音速と呼ぶ。マッハ1の超音速とは異なり物理現象の劇的な変化が起きるわけではないが、飛行速度が速くなると衝撃波が非常に強くなり気流の温度が急激に上昇する。X−15では高度264,000ft(80km,50mile)をマッハ6で飛行することが要求され、機体表面の温度は600度以上に達すると推定された。また超音速実験機で経験された飛行特性の不安定がさらに強まると懸念された。
熱の対策には表面に断熱材を取り付ける方法も検討されたが、機体重量増加のために見送られ、熱に耐えうる特殊な金属が採用された。機体の主要な構造にはジュラルミンよりも熱に強いチタン合金とステンレスが使用され、特に高温となる機体表面にはジェットエンジンのために開発されたインコーネルXと呼ばれるクロム・ニッケル合金板が採用される。金属板は熱を加えられると膨張し、しわがより剛性が低下する。さらに、超音速気流にさらされるとパネルフラッタと呼ばれる不安定な振動も引き起こされる。こうした現象の対策のために熱による膨張を逃がす特殊な構造形態が採用される
機体形状はシンプルで、主翼は遷音速特性を重視し5%の極端に薄い翼型が採用され、後退角は15度、アスペクト比は2.5に設計される。極超音速機としての特徴は主翼後縁がとがっておらずエルロンが装着されないことにある。これらは衝撃波の発生を出来る限り抑えるための工夫である。エルロンに替わる操舵は水平尾翼を逆相に回転することによってなされる。機体強度はX−1のように過度に頑強には設計されず、最大7.33g、最小-3gの合理的な値が設定された。
尾翼の設計は安定性の観点から特に注意が払われた。X−1,X−2で発生したInertia Couplingと呼ばれる不安定な挙動を防ぐために尾翼(特に垂直尾翼)の効きを高めることが要求された。そのため垂直尾翼は通常の翼型ではなくクサビ型が採用され、胴体の上部と下部の両方に配置された。下部尾翼の下半分は、着陸時に切り離される設計であったが、後期の機体では高迎角時の不安定の要因となったためはじめから取り外された。水平尾翼は主翼と同一面とすることが望ましかったが、遷音速域でのバフェッティングを防ぐために15度下げた下反角を持つ。ヒンジタイプの操舵面はなく、垂直尾翼・水平尾翼とも一体に回転する。ヒンジ位置での衝撃波の発生を抑えるためである。水平尾翼は前述のように逆相に回転することでエルロンの役割をする。
機体はX−1のような空中投下により飛行開始し、胴体前部の車輪と尾翼下部のそりにより着陸する。 X―15は3機製作され、一号機は1958年10月に完成する。ただし、予定のロケットエンジンの開発が遅れ、X−1に搭載されたXLR−11s(推力8000ポンド)が取り付けられる。設計は57,000ポンド(25.8トン)推力のリアクション・モーターズ社製XLR−99でなされているが小さなロケット・エンジンでもマッハ3の飛行が見込まれた。X−15はアメリカの威信を取り戻すための期待の有人宇宙飛行機であり、ノース・アメリカン社の完成式典にはニクソン副大統領も参列した。この時期アメリカは宇宙開発においてソ連に大きな遅れを取っていた。一年前の1957年10月、ソ連は初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功する。12月にバンガードの打ち上げに失敗したアメリカは急遽ブラウン博士のロケットによりわずか31ポンドの衛星エクスプローラー1をかろうじて宇宙空間に送り出す(1958年1月)。米ソはし烈な宇宙開発競争に突入する。
ノース・アメリカンのテスト・パイロットにはX−1、ダグラス・スカイロケットなど経験豊富なスコット・クロスフィールドが採用される。地上のシミュレータ、F−100による模擬飛行などを経て1959年6月8日、最初の飛行試験をむかえる。動力無しの滑空飛行であったが、時速320kmで沈下し着陸アプローチに入る際にピッチ角制御が不安定になる。この挙動は操舵系のバルブを交換することで、位相遅れが小さくなり直ちに改善された。初の動力飛行は2号機により9月7日に行われマッハ2.11を記録する。1960年X−15はNACAから改名されたNASAに引き渡される。小型のロケットエンジンではあったが1960年8月4日にはマッハ3.31の速度記録を、12日には高度136,500ft(41.6km)の高度記録を出し、大型のXLR−99による飛行に期待が高まる。
XLR−99は液体酸素とアンモニアを燃料とし最大推力は57,000ポンド(25.8トン)で燃料ポンプの回転速度を変更する事で30%から100%まで推力を変更できる。燃料は標準で8.2トン搭載され85秒で消費される。XLR−99による初飛行は1960年11月22日行なわれ、アイドル状態でマッハ2.97を記録する好調な滑り出しであった。飛行記録は次々と塗り替えられ、1961年11月9日ボブ・ホワイトはマッハ数6.04を記録し、1962年7月17日同じくホワイトにより初めて高度80kmを超え宇宙空間に到達する。最高高度記録は1963年8月22日ジョー・ウォーカーにより108.03kmが打ち立てられる。
大気圏を飛び出すX−15には特殊な操縦系が備えられている。コックピット中央に位置する操縦かんは低速での飛行に、右に位置するサイド・スティックは高速時の操作に用いられる。さらに左には大気圏外での操縦のために別のサイド・スティックが配置される。大気圏外では空気力が利用できないので、機体の前後・左右から高圧ガスを噴射することで姿勢制御を行う。大気圏へ再突入し、翼が空気力を得るまでの過渡期の操縦は特に微妙で困難を極めた。3号機では操縦かんは1つに統合され、自動的に操縦系を調整するアダプティブな飛行制御系が採用される。
アメリカの宇宙計画はX−15計画にも影響を与え出す。ソ連は有人宇宙飛行もリードした。ガガーリンの乗るボストーク1は1961年4月初の有人宇宙飛行に成功する。アメリカは1ヶ月遅れてアラン・シェパードをマーキュリー7により宇宙に送るが、アメリカの劣勢は明らかであった。ソ連のロケットは強力でアメリカをはるかに凌いでいた。ケネディ大統領は新計画を打ち出す。「60年代のうちに人間を月に着陸させ、無事に地球に帰還させる」アポロ計画である。
巨大なロケットの開発に勢力が集中され、有翼宇宙機のダイナソア計画もキャンセルされる。X−15自体も宇宙空間を目指すと同時に最高速度の追求に目標が置かれ、1962年11月大破した2号機はマッハ8をねらうために改造される。胴体下部に落下式の燃料タンクが取り付けられ、機体全体は耐熱コートで真っ白に塗られる。1967年10月3日、ダイナソア計画をキャンセルされたピート・ナイトの操縦によりマッハ6.73の最高記録を記録する。空気との摩擦による温度は1600度にも達し、機体の損傷は予想を超えていた。これが2号機の最後の飛行となる。マイク・アダムスの操縦する3号機は事故で失われる。同機は1967年11月、マッハ5を超える速度でスピンに入り、高度70kmから30km以上落下する。いったん制御を取り戻すが、自動制御システムが不安定となり激しい振動が発生し機体は空中分解する。過酷なミッションの課せられたX−15計画は多くの事故を伴うが、アダムスは殉職した唯一のテストパイロットであった。1968年12月12日、唯一飛行可能な1号機は200回目の最終飛行を迎えるが、吹雪のため中止となる。天候の回復を数日待つが結局最終飛行はキャンセルされる。
1969年7月20日に月着陸に成功する華やかなアポロ計画の影に隠れた感のあるX−15であるが、宇宙開発への貢献は、極超音速の最高速度レコードホルダーとしての価値以上に大きい。パイロットの操縦で大気圏を超え、再突入して着陸する「もうひとつの宇宙飛行」は、当時の宇宙開発の貴重なデータとなった。アポロ8号のアームストロング船長もX−15のテストパイロットを経験している。また、それ以上にスペース・シャトルの開発に与えた影響は計り知れない。X−15の揚抗比はスペース・シャトルの値とほとんど同じであった。スペースシャトルの大気圏突入から帰還までの技術開発はX−15の経験無しにはこれほど順調には成し遂げられなかったであろう。 もうひとつの有人宇宙飛行は十分に報われたのである。X−15・1号機は現在、スミソ二アン博物館においてライト兄弟のフライヤー号と並んで釣り下げられている。
鈴木真二 1996年12月13日