コメットの遺産
東京大学工学部航空宇宙工学科 鈴木真二 1996年3月5日
「もんじゅ」の事故報道に接し、世界初のジェット旅客機コメット の事故を思い出した。思い出したと言ってもコメットの事故は私の生まれた頃の出来事であるから、直接知っているわけではない。コメットの教訓は何であったのか詳しく知りたいと思った。歴史は未来を映し出す現在の鏡である。
第二次大戦末期に、英国は戦後の航空産業をリードすべく、当時英国では手薄であった輸送機の開発構想に着手する。英国はドイツとともにジェットエンジンの開発の先陣に立っており、この技術を生かしたジェット輸送機計画が立案される。コメットはこのとき設立されたブラバゾン委員会の申し子であった。当初は、ジェットエンジンの効率が、ターボプロップより劣ると考えられ、ジェット郵便機としてコメットは計画される。開発は、金属製旅客機の経験は無いが、ジェット機の開発に積極的であったデハビランド社が担当した。最終的にはBOACの意向もあり、36人乗りのジェット旅客機として開発される、1949年4月2日ロールアウト、7月27日に初飛行に成功する。コメットの重量は107、000ポンドで、当時のプロペラ機DC−6Bと同じサイズであった。ただし、推力は小さく乗客数はわずか36で、航続距離は1、750マイルにすぎない。DC−6Bは、倍以上の乗客を乗せ、3、000マイルを飛行する事が出来た。しかし、巡航速度マッハ0.68は、DC−6Bの2倍で、試験飛行中には主要都市間の飛行時間記録をつぎつぎと更新する。1952年5月2日に定期運航を開始する。ロンドンとヨハネスブルグを途中5カ所で給油のため着陸し、5、836kmを23時間34分で飛行する。コメットは空気の乱れの少ない高度35、000ftを快適に飛行でき、予想以上の好評を得る。
開発が順調であったのと裏腹に、就航後次々と事故に襲われる運命となる。発端は、1952年10月26日、ローマ空港離陸時のオーバーランである。幸い死者は無かったが、翌年、3月3日CPAに引き渡し飛行中の機体がカラチ空港離陸直後に墜落し、乗員乗客11名全員が死亡する。両事故の原因は主翼の失速と判断され、前縁に修正が加えられる。運航1周年目の1953年5月2日、カルカッタから離陸6分後空中爆発し、ついに空中分解が起きる。この事故は激しい雷雨の中で発生し、真相はベールにつつまれた。
墜落事故は続いて発生する。翌年の1954年1月10日ローマ離陸後27、000ftを上昇中に事故は発生し、機体はエルバ島沖に墜落し35名死亡する。遺体に減圧と火傷が認められたため、爆発物による破壊工作、またはエンジンのタービンの飛散が疑われた。BOACは運航を約70日間停止しエンジン保護板、防火装置など50項目以上の改修を行った。しかし、運航再開後1ヶ月も経たぬ4月8日、ローマ離陸後35、000ftに上昇中30、000ftで空中分解し21名が死亡する。英国航空省は事の重大さから4月12日にコメットの型式証明を剥奪する。
時の首相チャーチルは「イングランド銀行の金庫がからになってもいい。事故調査を徹底的に行え」と事故原因の徹底究明を命令した。英国海軍が中心となりエルバ島沖の1、800mの海底から機体の残骸を回収するとともに、RAE(王立航空研究所)は飛行試験、疲労試験、さらに胴体を取り囲み水槽を作り、胴体加圧試験を行う。与圧による胴体構造の金属疲労が疑われる。両機の飛行時間は4、000時間に満たず、金属疲労が直接の原因とは考えにくかったが、当時のプロペラ機は飛行高度が高々、25、000ftであったのに対して、コメットは高度35、000ftを飛行する特殊事情があった。客室の与圧は、高度8、000ftに保たれる様に設定されるので、1インチ平方あたり7.5ポンドの圧力差(1平方メートルあたり5.7トン)が加わる。地上ではこの圧力差は0になるから、運航のたびにこの荷重が繰り返される。水槽試験では3、057回目に胴体が破損する(この記録は諸説あり、調査結果を再度調べる必要がある)。一日6回のサイクルで、年に300日飛行し、19ヶ月の運行に相当する。事故との対応は衝撃的であった。回収された機体ではADFアンテナ開口部に金属疲労が認められ、事故原因が特定された。
デハビランド社は大西洋路線用に計画していたコメット4型に事故の教訓を生かし、失地回復を目指す。胴体外板を厚く、窓などの鋭角を取り除き、世界で最もテストされつくした旅客機として生まれ変わる。運航停止の4年後、1958年に就航が開始され大西洋路線に投入された。コメット4はボーイングの最初のジェット旅客機B707と大西洋横断就航を競い、B707より3週間早く就航ができ、面目を保つ事が出来た。しかし、近代的なB707には大きく水を開けられる。B707が967機生産されたのに対してコメット4の生産は74機にとどまった。
コメットの事故は予知できぬ事故と判断された。金属疲労自体は、1948年のマーチン202の事故以来、主翼設計に関してその重要性が認識されていた。デハビランド社も胴体前半に54、000回の疲労試験を行い、その安全性を確認している。しかし、この疲労試験で破損しなかったのには訳があった。疲労試験に先立ち、強度試験のために標準圧力の2倍の荷重を加え試験をしていた。これは、一見壊れやすくなるように思われるが、クラックの発生しやすい部位に残留応力が発生し、疲労に対して強くなったことが後の研究で明らかにされる。主翼以外の構造の疲労に関する研究が遅れていた事が悔やまれる。コメットの代償はあまりに大きかったが、その教訓はその後の設計思想、試験方法に反映されている。疲労でクラックが発生しても大事故に発展する事を押さえるフェール・セイフ構造はその代表である。1988年4月、アロハ航空ボーイング737が、胴体前半上部の外板を吹き飛ばされながら、無事着陸出来たのはフェール・セイフ構造によるところが大きい。パイオニアの悲劇は避けられないかも知れないが、その科学的原因究明こそが後世への遺産である。